このblogでも、何度か紹介しています石井淳蔵先生の新しい著書が出てました。
これまで、あちこちのコラム等で書いてこられたことを、「ビジネス・インサイト」というテーマの元にまとめたものと言えそうです。
また、前エントリー「マーケティング・リサーチの現状」でのコメントのやりとりの内容とも、多少かかわってくるかもしれません(→こちらのエントリーです、コメント欄をご覧ください)。
永遠の若手さんが最初感じていたような「マーケティングは、所詮、センスではないのか?」、そしてそれへの回答でとおりすがりさんが指摘した「科学的に「商売」を定式化したものが、マーケティング」。
今、この「センス」と「科学」の間で揺れ動いているマーケターの方は、多いのではないでしょうか?(リサーチャーの方も?)
私自身、このような意味でマーケティング・リサーチへの懐疑を抱き、一度現場から少し離れた視点で、マーケティング・リサーチを学びなおしたいということで大学院進学を選んだという経緯もあります。
石井先生の今回の著書は、このような疑問に対して、ひとつの回答を呈示している本だと思います。(この回答を肯定できるかどうかは、それぞれだと思いますが・・・)
では、いつものように、まずはもくじを。
序章 経営者は跳ばなければならない
第1章 実証主義の経営を検証する
第2章 ビジネス・インサイトとは何か
第3章 知の隠れた力 tacit knowing
第4章 ビジネス・インサイトをケースで学ぶ
第5章 ケース・リサーチの可能性
第6章 経営における具有性
こうやってもくじだけみると、お手軽なビジネス書に見えるかもしれませんが、岩波新書ですので。。。そんなにお手軽ではないですし、ノウハウが書いてあるわけでもありませんので、この点は誤解なきよう。
では、何が書いてあるのか?「本書の課題」として、つぎのように述べています。
本書では、「経営者は跳ばなければならない」ということをめぐって、それについての、経営の実践と経営の研究との関わりについて考えたい。経営者が跳ぶ、そこには経営者が将来の事業についてもつところのインサイトの存在があると考え、それを「ビジネス・インサイト」と名づける。そして、ビジネス・インサイトの考え方と、それを理解するための枠組みとを提起したいと考えている。(p10)
キーワードはすでに紹介した。「暗黙に認識する」ことと「対象に棲み込む」ことである。(p11)
このように、本書で書かれているのは、ノウハウではなく「考え方と枠組みの提起」ですので。
この文章だけでは内容がわからないかもしれませんが、ぜひ一度、ご自身で読んでみてください。よくある経営書とは違う視点を得ることができるかもしれませんので。
(amazonにも出てないようなので、以下、カバー折の惹句を紹介しておきます。こちらで少しはわかるでしょうか?・・・)
新しいビジネスモデルが生まれるときに働く知を、「ビジネス・インサイト」と著者は呼ぶ。この創造的な知は何なのか。M・ポランニーの「知の暗黙の次元」を手がかりに、ビジネス・インサイトが作用した多くの事例を考察して、ケースを学ぶことで習得できる可能性を探る。マーケティング研究の第一人者による経営学の新展開。
ここでは、本書の本題からは離れるかもしれませんが、前のエントリーで少しテーマとなった「学ぶ」ということについて考えさせられる文章が随所にあるので、いくつかご紹介しておきたいと思います。(とはいっても、創造的な知のためには「暗黙に認識する」「対象に棲み込む」ことが必要、というキーコンセプトと関連しているのですが。)
たとえば、経営研究と経営実践については、つぎのように言っています。
学者の所説を一つの素材として自分の構想に取り込み、構想を描く。あるいは、その所説の中に棲み込んで、その所説を自家薬籠中のものとする。所説の良いところも悪いところも、裏も表も理解する。そしてたぶん、その所説を述べる学者が当初想定していた範囲を超えて、その所説に新たな意味づけを与え新しい生命を吹き込む。そのようにして、経営学における知識や所説は、彼らにとってかけがえのないものとなり、自身の事業経営の核にも位置することになる。(p9)
そして、「セオリー」については、つぎのように言っています。
セオリーを現実に使いこなすためには、セオリーもまた現実の一断片、意味ある全体を見通すための一つの手がかりでしかないことを知ることである。現実を説明する唯一無二のセオリーがあるわけではなく、一つ一つのセオリーが説明できる範囲、説明できない範囲を知り、セオリーの適材適所を図らないといけない。つまり、セオリーは相対化されることが必要だ。(p164)
さらに、「暗黙の認識の存在」という力を得るための姿勢について。これはまさに、「学ぶ」ことの基本的な姿勢だと思います。
第一に、「意味ある全体像」は、能動的に経験を形成しようとする結果として生起することである。(・・・中略・・・)
能動的な関わりは、現実にそういう事情に迫られれば、誰でもそうなることだろう。だが、「いつ必要になるかわからない将来に備えて学ぶ」ということになると、途端に能動的な関わりへの意欲を失ってしまう。(・・・中略・・・)
先に述べたように、その学ぶ意欲が教育においてもっとも肝心な要素である。意欲がなければ、言葉で伝えることができずに後に残した何かを、受け手が発見できることはないのである。(pp167-168)
第二として、学ぶ意欲をもって、全体を把握する手がかりとなる対象に棲み込むことが大事であるということも理解しておきたい。(・・・中略・・・)対象が当事者であれば当事者になりきって同じ視界で物事を見、そして考えること、対象がセオリーであれば、まずそのセオリーを使って問題を解いてみること、対象が事物であれば、その事物のありとあらゆる可能性や意味について探りを入れること、になるだろう。
こうやって、本を読み替えることも「新しい知の創造」には必要なことだと思います。(と、正当化をしておきます。。。)
PS.
実は、最近の石井先生のコラムを読むと、本書のポイントが散りばめられています。
つぎのエントリーで、まとめておきますので、こちらもどうぞ。